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2007年3月19日 パニック『母』

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3才の春 ~生き方を見つける~

ダイナマイトのようなタロウを恐れ、心に余裕のない私は、突然の出来事を受け止めることができない。

私は不安が爆発してパニックを起こしながら、逃げ出したい気持ちに立ち向かい、『母』であろうとした。 3/15、タロウが3才になった次の日、私は闘いの日となった。

心身疲労の私(外出先で、タロウが興味のある物事から離れたくなかったり、拒絶する物事に出会う度に泣いて暴れ、スムーズに行かないから)には、もう気力がなく、お昼過ぎに買い物がてら散歩に出た。

ダイナマイト

 

タロウは家で「ポンポン痛い」と言っていたが、食欲もあり、ウンチも正常だったので気にしていなかった。

「あのピンクの花のところまで歩こう」 区役所の川岸側に、桜より一歩早く何かの花が満開になっているのが見えた。私達は川沿いに歩いた。 タロウを花と一緒にデジカメで撮り、区役所内まで歩くと、また「ポンポン痛い」と体をくねらせた。

私は嫌な予感がした。 タロウは歩くこともスーパーに寄ることも拒否し、おんぶで帰宅した。

バギーに乗せて買い物に出掛けると、昼寝してしまった。 帰宅し、布団に寝かせた。苦しそうな呼吸。私は不安で不安でたまらなくなった。外の暗くなっていく様が、私の不安を増大させ、無人島にでもいるような気がした。

私がビクビクしながら家事をこなしていると、タロウは苦しそうに目覚めた。

「ポンポン痛いよぉ」私に助けを求めるように訴えた。私は一気に血の気が引き、血圧が上がりっぱなしになった。

すぐに『ポンポン痛い→吐く』と連想してしまった。実際に今までそうだった。私は嘔吐にトラウマがあり、タロウに吐かれることが死ぬほどダメだ。 タロウは痛みに苦しみ私に訴え続けた。じっとしていなかった。

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私はタロウの頭を撫で、お腹や腰を摩り、吐きそうになったら、洗面器を差し出した。精一杯『母』であろうとした。トイレにも行かず、私はタロウのそばを一切離れなかった。   内面パニックな私は、タロウを看ながら、外に助けを求めた。ダンナと母に連絡し、病院を調べた。結果、ダンナはすぐに帰宅することになり、母も来てくれることになった。

力足らずな自分に情けなくなった。 タロウは1時間半痛みに苦しみ、訴え続けた。吐きそうでも吐かずに乗り越えた。タロウが落ち着いてきた頃、ダンナが帰宅し、私はやっとトイレに行くことができた。

タロウは頬が赤くなり、高熱になっていた。ぐったりしたタロウのおでこに、ダンナが冷たいタオルを当てた。 母が到着し、冷静に対処してくれた。解熱剤を飲ませ、吐き気止めの座薬を入れた。

翌日、高熱と腹痛でタロウは早起きした。母は夜遅く帰宅し、朝迎えに来てくれた。私は限界を超えたため、里帰りすることに決めた。 再び解熱剤と吐き気止めで落ち着いたタロウだが、電車に約1時間も乗せるのは無謀とわかっていた。

が、それしか選択肢はなかった。

タロウは電車に乗ることに喜び、幸運なことに、何事もなく実家に到着した。 小児科へ行ったが、処方は同じだった。

症状は熱と腹痛と下痢がごく少量で、鼻も喉も正常。 発症から4日経った今日3/19、熱はないがまだ腹痛を訴える。食欲も腹痛もばらつきがある。   私はタロウと世の中に板挟みにされ、ダイナマイトのようなタロウに怯えながら生きている。

タロウには全ての物事において『普通』がなく、良くも悪くもいちいちつっかかり、思い通りにならないと爆発する。全てにおいてスムーズに行かない。普通のことが普通にできない。

子供なら喜びそうなことに喜ばない。逆に、刺激を拒む。タロウを喜ばせようとした行為は、タロウにとって苦痛でしかない。 私にはもう、擦り減る神経も、削る命もない。

ふと思った。もしや、一番苦しんでるのはタロウかもしれないということ。   タロウは生きにくい世の中に疲れ、3才早々心身症にでもなったのかもしれない。いや、タロウを嘆く私に疲れたのかもしれない。

私はタロウの一番の理解者と自負しているが、私にだって私の人生がある。私の心を殺してまで、全てをタロウに捧げるわけにはいかない。 一緒に闘おう。ダメになったら、一緒に死のうではないか。

私の両親も弟も私のことをすごく心配している。育てにくいタロウのことで頑張り過ぎるのはかえって心配だから、無理せず早く実家に戻って来るように言ってくれた。

今回のたった1時間半の看病も褒めてくれた。

複雑な涙が流れた。

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